公園の思い出はいくつかある。
実家の近所にもいくつかの公園があって、小学校の頃は近所に3つほど、少し足を延ばした隣町に2つほどの公園を「行きつけ」の公園にしてよく遊んでいた。
公園は子どもだった私には友だちとおもいきり遊んだ宝物のような思い出の詰まった場所であるが、それにも増して思い出されるのが、「雨の日の誰もいなくなった公園」なのである。
雨降りの公園…。
こんな静かな場所が他にあるだろうか。
無音ではない。完全な無音の場所なら他にあるかもしれない。
しかし、鼓膜を揺らすわずかな雨の音が、かえって誰もいないその場の広がりと静寂さを意識させるのである。
実は子どもの頃、雨の日にとある公園のそばを通りがかった時、子どもたちがみんな帰ってしまって誰もいなくなった公園で、雨に打たれて濡れている大きなクマの人形があるのが目に入った。それは小学生の私が見上げるほどの背丈であった。
その日、誰もいない公園で、ひとり黙って雨に打たれているクマを見ているうちに、私はどうしたことか、そのクマと二人っきりで話しているような気分になってきたのだった。クマと私の二人だけが静かな世界に存在しているような気持になったのだった。クマは何も語らないのに私の気持ちをすべて理解してくれているように思えた。わずか1分ほどのその静謐な時間は、私ににとって他のどの場所でも味わうことのできない安らいだ時間であった。それは確かに私が小学生のときの出来事だった。
あの公園はどこにあったのだろうか。本当はそんな公園はどこにもなかったのだろうか。子どもの頃に遊んだいくつかの公園のイメージが重ね合わさって、ただ心の中に作り上げられた架空の場所だったのだろうか。しかし私には、静かな雨に濡れながら遠くを見つめるクマの顔が今でもありありと思い浮かぶのである。
私は今でも、雨降りの日に公園の前を通りがかると、立ち止まってしばらくその公園を眺めて過ごすことがある。公園に遊ぶ子どもはおらず、錆びたフェンスに雨粒が滴り、遊具たちが寂しそうにしぐれているだけである。砂場に忘れられたプラスチックのバケツに雨が溜まっているだけである。
それでもそうして雨の公園を眺めていると、今もあのクマが近くにいるような気がするのである。