グリコの看板が見下ろす「ひっかけ橋」で、わたしは絵を描き始めた。いや、正確に言うと「描き始めた」のではなく、それまでに描き溜めていた鉛筆画を橋の上に並べて「売り始めた」のだった。
値段のつけようがない。自分では心を込めたつもりだがそれがいったいいくらの価値があるのか、値段のつけ方もわからなかった。周りで似顔絵を描いている若者はたくさんいたが、たいてい「COPIC」と呼ばれるマーカーを使い、デフォルメを効かせたポップでカラフルな似顔絵が多く、たいてい「お気持ち」と書いた看板を置いていた。絵かきさんの腕にもよるが、だいたいみんな数百円からたまに1000円くらいを払ってくれているようだった。自作の歌を歌ってギターケースにお金を入れてもらっている女の子もいた。聞けばしばらく前まで「コブクロ」がここで歌っていたらしい。それほどストリートパフォーマーの天国だった。
わたしはライブで似顔絵など描いたこともなかったので、自分の描いた絵を並べて売った。今から考えるとよくそんな値段をつけたなと思うが、白黒の鉛筆画の絵をクリアファイルに入れて、1枚3000円~5000円くらいの値をつけてやった。
数時間過ぎたが1枚も売れなかった。
夕方になって、すこし涼んできたころ、一人のおっちゃんが私の前に立ち、「にいちゃん、ワシの顔描いたってくれや」と言ってきた。ちょっと酔っぱらっている感じで、半分絡んできているような言い草だった。わたしは、似顔絵など描いたことが無い――高校の時に、好きなアイドルの写真をノートに1~2枚模写したことがある(それも1時間も2時間もかけて)程度だった――ので、すぐさま「いや、似顔絵は描いたことが無いんで・・・」とやわらかく断った。
すると酔っ払いの眉間にしわが寄り、「にいちゃん、わし頼んどるのに聞かれへんいうんか」と絡んできた。
あちゃ~、まずい~、やばい~。
周りの絵かきさんたちも、「アレ?ちょっとやばい感じ??」みたいな雰囲気になっている。酔っ払いはさらに「描かれへんことないやろ?描いてみたらええねん。描いてみいや」と圧力をかけてくるので、わたしはもうどうとでもなれ、という思いで「わかりました。じゃあ、描いてみます。描いてみますけど、初めてなんで…」とその場でおっちゃんを座らせて描き始めた。
10分くらい描いていると、なんだか周りに人が集まっている気配がして、見上げると周りに人垣ができていた。そして、私の後ろに回って酔っ払いの顔と見比べたりしながら、ニヤニヤと絵が出来上がるのを見物していた。たぶん「COPIC」のデフォルメ似顔絵ではなく、鉛筆だけで――それも比較的精密に写真のようにライブで――描く似顔絵描きが珍しかったのだろう。いずれにせよ、完成が近づくころには私の周りには観光客やアベックやら、外国人やらが取り囲み、結構人だかりになっていた。
15分くらいかけて、ぶっつけ本番で――ちょっとビビりながら――何とか描き上げた鉛筆画似顔絵は、自分で言うのもなんだが、結構「似ていた」のである。
それで、完成作品を酔っ払いに渡すと周囲から「うわー!似てるー!」と歓声が上がり、酔っ払いもまま納得したようで、いくらか金を置いて行ってくれた(いくら払ってくれたかもう覚えていない)。
それでその後何人かが「私も描いてもらえます?」と客がつくようになったのだった。
結局その日、最初から用意していた風景などの鉛筆画は、外国人観光客が買っていってくれた1枚きりだった。B5サイズで5000円というアコギな値段をつけたのだが――今となっては少し悪かった気もする――彼は5000円払っても買おうと思う価値を私の絵に見出してくれたのだから、それでそれでいいはずだ。たとえそれが、日本という極東の、大阪ミナミのひっかけ橋というエキゾチックな旅の思い出にしたかっただけだったとしても。
以来、わたしは自分の作品はまったく売れないけれども、鉛筆画「似顔絵」には結構客がつくことがわかり、それ以来、ポストカードなども並べはしたものの、客がつくと分かった主力商品「鉛筆画似顔絵」で勝負することになったのである。そしてこれが大きく当たり、その辺でアルバイトするよりよっぽど儲かったのである。同じ似顔絵でも「鉛筆画で精緻に描く」という独特の絵柄は、他の絵描きとうまく住み分けができ、むしろタイプの違う絵描きが二人並んで座ることで相乗効果が生まれどちらにも客がつきやすいことがわかると、さらにいろんな絵かきと交流が深まり仲良くなった。それだけでなく、弾き語りのお姉さんや、ストリートバンド、当時はあちこちにいたユダヤ人露天商など、だんだんと、週末のひっかけ橋で声を掛け合う「馴染みの顔」になっていったのである。
大学院に進んだばかりだったが、平日は大学で修士論文、土・日はひっかけ橋で似顔絵、という生活がはじまった。もっとも日曜は教会に行っていたので、午前中は礼拝に出てから午後から描き始めた。だんだん人気も出て、人通りが多い時などは3時間待ちにもなり、ファミレスや回転寿司でよくあるように、ノートに名前と人数を書いてもらって順番が来るまでしばらく時間をつぶしておいてもらう、というような対応も必要になってきた。
慣れてくると値段のつけ方も頃合いがわかるようになり、わたしは「1000円プラスお気持ち」などという欲深い値段設定にして、晴れていれば1日3~4万円くらい稼ぐようになっていった。夜の10時を回るとほろ酔い気分のカップルなんかがやってきて、彼女の絵を極力似せて、微妙に瞳を大きくしたり顎を細目に描いたりすると「いや~ん、似てるや~ん!」と喜び、気分の良くなった彼氏がチップを弾んでくれる、なんてことがよくあった。そういえば彼女の似顔絵に1万円払ってくれた「ちょい悪オヤジ」もいた。ヤクザに絵を踏まれたこともあったが、暗くなったらこうもりのように増えてくる黒服の呼び込みなども、時間ができると客として座ってくれるのもいて、彼らはナルシストなのか、できる限り本人に似せつつもわずかに男前加減を加えると結構気前よく払ってくれた。
ホストや呼び込みなど夜の街の人は気前がいいのも結構いたが、困ったことに彼らの数が増えると比例して警官の数も増えるのだ。同じく道路交通法違反の形で絵を描いていたわたしたちストリートパフォーマーは、彼らへの取り締まりのあおりを食らって、「君らもここで描くのはやめなさい」と警官にたびたび散らされた――といっても、ある日終電間際に客としてついてくれた男前の兄ちゃんに二人に似顔絵を描きながら世間話をしていると、実は自分たちは現役の警官だと教えてくれた。今日は非番で遊びに来たのだと。そして、たしかに道交法の問題があるのでいいとは言えないが、このような芸術活動は、ヨーロッパのように大阪ミナミの文化にしていけばいいのにと個人的に思ってる警官は多い、と教えてくれた。応援しているからこれからも節度を守って頑張ってほしいと。
このストリートパフォーマーは観光客には支持されていたし、実際ミナミの雰囲気を祭りのように盛り上げてはいた。それも自然発生的に。しかし、心斎橋筋商店街の方々の中にはよく思っていない方々もおられたようだ。たしかに何の営業許可も取っていない得体のしれない素人集団が道の両脇に座って商売していたら恐怖を覚える人もいるだろう。もうすこし何か取り決めをして、ここから世界に出るような芸術家が生まれるような場所になったらよかったのにと今でも思う。
この点は賛否両論あったものの法律違反はやはり問題で、警察が来るたびパフォーマーは仕事場を追われる羽目になった(これが最後にえらいことになる)。
いずれにせよ、わたしは毎週末にこの橋に座り、真っ黒になって絵を描き続け、終電ギリギリの御堂筋線や阪急電車の中で、その日稼いだ千円札を指をなめなめ数えるのが結構楽しみな時間になっていった。
ちょうどそのころ、GARNET CROWの“Last Love Song”をよく聴いた。というのは、彼女らの音楽の雰囲気が、なんとなくミナミのストリートの、少し退廃的な、刹那な、そんな情感を感じさせるものだったから。
わたしは、修士論文を書いてもそれが仕事につながるとは思えなかったので、このまま絵を描いて野垂れ死んでもいいのかもしれない、などと考えるようになっていった。
牧師にもなれず、絵で食うこともできず、弟の援助を受けながら、最後には拳銃で自死したゴッホが、なんだか近くにいるような気もした。芸術の深みがたとえ天と地ほどに違ったとしても。
『ゴッホの手紙』もこの頃に読んだ。
(つづく)