夢の話なのか、現実に体験した出来事なのか。
その日の記憶さえ雨の中に溶けていきそうだ。
しかし、私の心には悲しみだけが確かな感情として残っている。
小学生の私は電車の中で傘を置き忘れた。降りてから気づいたが、もう電車は出てしまった。どうすればよいかわからず、そのまま家に帰ったような気がする。
誰かにもらったとか、お気に入りの傘だったとか、そういうものでもなかった。家の傘立てに放り込んであったような使い古した傘だった。言ってみれば、それ一本失くしても、たちまち暮らしに困るというものでもなかった。
だから余計に悲しかった。私のせいで、私の手から放たれていったということが悲しかった。私にとって、忘れる程度の、そして、忘れたとしても生活に困らない程度のものであったというということが余計悲しかった。不憫な傘は、私によって忘れられ、置き忘れられ、もう二度と私の家には戻ってこられないであろう形で、電車に乗って、どこか遠くへと行ってしまった。
あれ以来、その一本の傘が、「無くて不便である」とか「もったいない」とかいう理由とは異なる、もっと人格的な痛みとして私の記憶に残り続けている。そこにはモノ以上の何かと結ばれる関係性が存在している。
たぶん、特別のお気に入りの傘だったら、誰かにもらった記念の傘だったら、そういう特別で大切な傘だったらかえってこんなに悲しくなかったのだ。そういう愛情によって所有されていたのだから。
しかしあの傘は、その愛情を受けていなかったのだ。受けていなかったから、失われてしまったことが悲しくて仕方がないのだ。そして、その薄幸の傘を置き忘れたのが他でもない私であったのだ。
あの日、私の手から失われた黒い傘に、君は他の何物によっても替えの利かない唯一の傘であったという存在を与えていてやりたいのだ。私の痛みとして覚えておいてやりたいのだ。消費され代替されるモノとしてではなく、たましいという言葉が与えられるような傘のいのちを感じていてやりたいのだ。
それでも、忘れられた傘の悲しみを埋め合わせるものはない。どんな謝罪や補償をもってしても、愛されずに虚無の中に放り出された傘の悲しみを埋め合わせるものはないのだ。
キリスト教徒は、いつまでも傘の名を呼ぶ私のことを、君の考えはアニミズムだからキリスト教的ではない、と言うだろうか。
もしそう断じられたとしても、傘を置き忘れた私の罪を赦しうるものは神以外にないのだけれど。
大切にできる傘を