小学生の頃、夏休みは永遠に続くかのように思えた。夏休みの手前では、夏休みが終わった後のことを想像することもできなかった。そんな日があることも思い浮かばなかった。夏休みよりも向こうにあるものは、夏のまぶしい光でさえぎられて何一つ見えなかった。だから夏休みは永遠のように思えた。太陽がまぶしすぎて、ひまわりが高く伸びすぎて、小さかった私には、ひまわりの向こうにある夏の終わりは何も見えなかった。
しかし、いつのころからか、夏休みって意外に早く終わるんだ、と感じるようになった。いつのまにか、夏休みが始まる前から2学期のことを思い浮かべるようになっていた。夏休みが残り1週間くらいになったらどんな気持ちになるかということを、まだ夏休みが始まってもいないのに想像するようになった。
いつのまにか夏休みは永遠であることをやめていた。
どこまでも楽しくて自由な時間であったはずの夏休みは、2学期以降の準備のために与えられた、合理的な時間になった。かつて夏休みは、それが夏休みであるということ自体に存在理由があったのに、今では、夏休みは夏休み以外の何か大切なことのために利用すべきものであるとみなされるようになった。夏休みの向こう側は「まぶしくて見えない」どころか、むしろ2学期をしっかり見据えて、そこから逆算して枠をはめていく、小さな、合理的な、つまらない時間になっていた。
それは人生に対して持つようになった感覚と似ているという気がした。
「子どものようにならなければ天の国に入ることはできない」という聖書の言葉を思い出した。たしかに、小さい頃には、神さまももっと近くにいて、天の国ももっとそばにあったような気がする。夏休みの向こうは思い浮かびもしないのに、神さまがいる場所は知ってみたいと思っていた。
「子どものようになる」という言葉は、「人生が永遠に思えたときのようになる」ということなのだろうか。「夏休みの向こう側も、人生の終わりも、永遠の向こうにあるように思え、それがまったく見えなかったほどに夏の光がまぶしかった場所に立つ」ということなのだろうか。
もう一度その場所に立ってみたい。
目を閉じると『夏の友』という夏休みの薄い宿題冊子があったことを思い出す。終業式の日に、図画工作の作品やアサガオの鉢といっしょに持って帰った。
明るい陽射し。
蝉の鳴き声。
宿題なのに、『夏の友』の表紙は「さあ、明日から夏休みだぞ~」と語っていた。宿題なのに、持って帰るのがなんとなく嬉しかった。それをがんばれることが少し嬉しかった。
夏休みに入ると、なぜかいつもより早く目が覚めた。
窓の向こうに朝顔の蔓。青い空と入道雲。
テーブルに『夏の友』
すこし書き進んだページが開いている。
その隣に冷たいカルピス。
氷が解けてカランと音がしたけど、蝉しぐれのせいで誰も気づかなかった。