この年になって、小さいころ母がよく言っていた言葉を思い出すようになった。それは「仏さんにお願いしとき」という一言だ。
子どもの頃、飼っていたカメを死なせてシュンとしている私を見て、母が「仏さんにお願いしとき」と言った。それで何か解決するわけでもなく、元気を取り戻せるわけでもないのだが、その一言は私に、持て余すような悲しみも委ねていい相手があるということを教えてくれたような気がする。子どもだった当時の私にそれが理解できたということではもちろんなく、今になってようやく、それは泣いている背中に添えられる手のぬくもりのように感じられるのである。
結局私が、キリスト教信仰の中に見出している神の慰めは、この「仏さんにお願いしとき」ではないだろうか。幼いころに聞いたこの一言は、今思えば、人生における「どうしようもないこと」を引き受けてくれる何かがあることを私に意識させ始めてくれた最初の言葉だったのかもしれない。
大人になって地方で暮らすようになったある年の夏、久しぶりにクルマで帰省した。休憩がてら途中にある河原に立ち寄った時、沢で小さなカニを見つけた。素手で捕まえ、その辺に落ちていたプラスチックの容器に沢の水や小石とともに入れた。私は子どもの頃に戻ったような楽しさを感じ、そのまま容器の中のカニを実家まで持ち帰った。ところが6時間ほどの長距離ドライブの間にカニは弱り、家に着くころには息絶えてしまった。いい年をしてかわいそうなことをしてしまったと、これまた子どものように情けない思いに浸っている私に年老いた母が微笑みながらかけた言葉は、30年ぶりに聞いた「仏さんにお願いしとき」だった。
――仏さんにお願いしとき。
この言葉は、子どもだった私に二つの大切なことを教えてくれたと今では思っている。一つは、人生には人間の力で「どうしようもないこと」があるということ。そしてもう一つは、それが「どうしようもないこと」だからこそ、人間はそれを受け止めてくれる存在を必要とするということ。これこそ宗教の到達せねばならない一つの境地ではないかとさえ思う。今思えば、この一言は私の宗教心というか霊性に大きな影響を与えたと思うし、私がこれまでキリスト教を通して学んできたのは、この「仏さんにお願いしとき」という言葉の背後にある(私にとってみれば)神の慈しみに対する全幅の信頼ではなかったかと思っている。
その母に突如がんが発見され、あとわずかの命だと突然医者から告げられたのは、もう2年前のことである。しかし、ありがたいことに痛みがなく今も往診を受けながら自宅で療養している。
私は母のことも「仏さんにお願い」しておこうと思う。