「義兄は絵が上手だ。ものの形や表情をちゃんとつかんでいる。しかし、何だろう。じーんとは来ない。きっと、絵を描いているからで、自分を描いていないからだ。」(早川義夫著『たましいの場所』(ちくま文庫)より抜粋)
この言葉にいたく納得し、自分の気持ちも書きたくなった。
こう見えて(?)わたしは「こいぬ」を題材にした絵本を2冊商業出版している。うち一冊はモノクロの鉛筆画絵本で、絵も物語もわたし自身の作(理解の助けとなる文章は編集部が入れた)。もう一冊は、文章を書いた作家さんが別にいて、その物語に後からわたしが色鉛筆で絵をつけた。今回は、そのうちの、絵も物語もわたし自身が創作した鉛筆画絵本の方について書く。
その絵本の表紙は「こいぬ」のアップが描かれている。そのこいぬの表情を見た人から、よく「うわ~っ! かわいい子犬! 犬が好きなんですか?」と訊かれる。しかしそう言われるたびわたしは心からガックリくるのだ。なぜならわたしが描いたのは「犬」ではなく「悲しみ」なのだから。
「悲しみ」は目に見えないから、目に見える「こいぬ」を通してそれを描こうとした。
「こいぬ=悲しみ」なのではない。「こいぬ」自体が悲しみそのものなのではなく、絵のこいぬを見つめていると、わたし自身の心の中の悲しみがこいぬの表情に滲みだしてくるのだ。
誰か、もしその表紙のこいぬを見て、少しもの悲しい気持ちになってくれる人がいたら、それは、その人自身の心の中にある悲しみが、絵のこいぬに触発されて外に出てきて、滲んできて、その滲んだ悲しみの中に自分の悲しみを感じられるようになったということだと思う。そしてそうなった人とわたしは、とても近いところにいる。
犬を見て犬を描いたところで、それは上手い絵にはなるだろうが「じーんとくる絵」にはならない。人は絵を見てじーんとくるのではなく、絵の中に滲んでいる自分自身の心に出会ってじーんとくるのだ。