その瞳を見ていると悲しくなった。悲しくなるのに目が離せなかった。あれは15歳のときだった。
高校に入学して学校にも少し慣れてきた6月のある平日、ぼくたちの高校は創立記念日を迎えた。平日に堂々と学校を休めるということで、ぼくはクラスの友だちと連れ立って、隣町の枚方市にあったヤングプラザ(通称「ヤンプラ」)というアミューズメント施設に遊びに出かけた。ヤンプラには比較的大きいプールがあったのだ。6月の平日ということで、客はぼくら以外にほとんどおらず、貸し切りのような状態でのびのびと泳ぎ、泳ぎ疲れるとプールサイドに置いてあるゲーム機で遊んだ。
遊び疲れて日も暮れかけ、帰宅のために駅まで戻ったところで、誰かが「腹が減ったからうどん食べて帰ろう」と言った。ぼくも腹ペコだったのだが、財布には数百円ほどしかなく、うどんを食べると帰りの切符が買えなくなってしまうので、仕方なく「あんまり腹減ってないから」とやせ我慢をし、みんながうどんを食べている間、向かいの本屋で本を読んでいることにした。今から思えば、うどん代くらい借りて一緒に食べたらいいじゃないかと当然思うのだが、当時のぼくが、そういう場合には「おごって」とか「貸しといて」とか気軽に言っていいんだとわかるようになるのは、もう少し友だち同士で遊び慣れる時間が必要だった。
さて、友人がうどんを食べている間、やせ我慢をして入った小さな本屋で、ぼくは心を矢で射抜かれるような瞳に出会ってしまった。その瞳は、世界の大きさに怯えるように、狭い本棚のから、15歳のぼくを見つめ、誰にも聞こえない声で何かを訴えてくるように思えた。
その本に手を伸ばし、どうしても中身を開きたかったが、「かわいい女の子が映った本」(いわゆるアイドル写真集)を手に取るのは何かいけないことなんじゃないかという、15歳の異常なほど高度な倫理観が当時のぼくにはあって、結局まるでエロ本を手に取るように隠れながら、店主に背を向けて食い入るようにそのページをめくったのだった。つまり「手に取らないこと」ではなく「見えないように手に取ること」、それが15歳のぼくの倫理観であったのだ。
その瞳の持ち主の名は薬師丸ひろ子というらしかった。ぼくはこの本をどうしても欲しいと思ったが、財布の中にはうどん代にもならない小銭しか残っていなかった。どうしたらいいのか考えたがどうしようもない。ぼくはこの写真数がどうしても欲しかった。家から自転車を走らせたところにも小さな本屋はあったが、この本は、この、このうどん屋の向かいのこの書店でしか手に入らないような気がしていた。実際、こんな少女の瞳に出会ったことがなかったのだ。お金を取りに家に帰ると言っても、電車にも、そこから自転車にも乗って帰らねばならなかった。 (つづく)